常世の夢
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 双方幾度も剣先を交えるが、なかなか互いの急所をとらえることが出来ない。いざとなればピーターは空中に避難するものだから、空を飛べないジェームズに追撃の手立てはない。
 不安定な足場。届かぬ刃。ジェームズにとっては絶対不利な状況だ。しかしチャンスはある。窮地転じて好機となる、たった一度きりの瞬間が――。
 ジェームズを嘲笑うかのように、ピーター・パンはひらりと舞い、急旋回して背後に回る。追って、狭い足場で体を捻った拍子に、ジェームズの左足が空を踏んだ。
 咄嗟の判断だった。ジェームズは帆桁にしがみつくという、本能に基づいた選択を捨て、あえて虚空に身を捨てた。
 落下する身体。瞬後、がくん、と右肩に強烈な負荷が掛かる。
 命綱を巻き付けていた右腕一本で、彼の身体は宙づりになっていた。
 帆桁に揺れるジェームズ・フック。まるで縛り首の死体のように。
「おかしらぁあっ!」
 悲鳴混じりの絶叫が聞こえる。
 無防備に吊されたジェームズ目掛けて飛来するピーター・パン。しかしジェームズ・フックの目は諦めていない。なぜなら彼の左手にはしかと刃が握られたままである。
 死中に活、乾坤一擲は今まさにこの瞬間にあった。ひらひらと逃げ回るピーター・パンを仕留める捨て身の戦法。我慢の限界まで引き付け、渾身の一撃で勝負を決める。
 気付かれぬよう、剣を握った左手に力を込める。まだ顔を上げてはならない。腕を伸ばせば刃が刺さるほどの、ぎりぎりの距離になるまで反撃を気取られてはならない。
 瞼の陰にピーターの姿が映る。
 まだだ。まだ遠い。
 まだか。まだ届かないか。
 もうすぐ、あと少しだけ。
 ――いまだ。
 空で身をひねり、全身に捻りを加えて刃を突き出す。
 手応えは――なかった。
「そんなことだろうと思ったよ」
 頭上、声のするほうに視線を向ける。緑の衣装を着た少年が空中で静止し、ジェームズを憎々しげに見つめていた。
「私の意図を見抜いていたのかい?」
 言わずもがなの問いを向けるジェームズ・フック。そうでなければ急に方向転換できるはずがなかった。
「――私の負けだ。ピーター・パン」
 万策尽き果て、ジェームズ・フックは自ら剣を手放した。全体重を吊り下げたために脱臼した右肩が鈍く痛む。
「そうだ、ジェームズ。あんたの負けだ」
 余裕たっぷりに宙を舞ったあと、ピーターは帆桁に舞い戻った。
「ジェームズ、ぼくに謝れ。そして誓うんだ。二度とこんな汚い真似はしないって。そうすれば」
「よせよ、ピーター」
 謝れば許してくれるだと? そんなのはこっちから願い下げだ。ぼくはもういい加減うんざりしているんだ。
「これ以上、おまえのごっこ遊びに付き合っていられるものか」
 意外にもその言葉は、今まで繰り出したどんな斬撃よりも手酷くピーターを傷つけた。
 ショックに立ち竦む少年に、大人気もなく追い討ちするジェームズ。
「もう一度言ってやる。これ以上、おまえのお守りはごめんだね」
 ピーターは今にも泣き出しそうだった。だが、
「わかったよ。ジェームズ――」
 呟き、ジェームズ・フックを吊り下げる一本の索へ短剣を伸ばす。
 そして最後に。
「さようなら」
 ぶつり。ロープの切断された音がした。

 がくん。  首が落ちた拍子にジェームズは目を覚ました。どうやら居眠りしていたようだ。
 反射的に背広のポケットに右手を差し入れ、財布の有無を確認する。良かった、すられていない。念のため中身を覗いたが、現金、クレジットカード、全て無事だ。ほっと一安心する。
 ここはどこだろう。当惑し、腕時計に目を遣る。午後11時14分。時刻表通りなら、降車駅を寝過ごしてはいないはずだ。それにしても深夜の地下鉄で居眠りなど、スリにしてみれば絶好のカモだ。普段は警戒しているのだが、近頃残業続きで疲れているのだろう。
 ジェームズの会社は半年前、外資系ファンドに買収され、余所からやってきた新社長の号令下、人員整理の渦中にあった。人件費の削減はイコール会社の純益に直結する。その理屈は納得できるのだが、今まで九人でこなしていた部署を、いきなり七人で回せというのは無茶ではないか。
 そう言った同僚はすぐに子会社の工場へ出向となった。だから今は六人で切り盛りしている。日付が変わる前に帰宅できるだけでもラッキーと思わねばならない。
 十七時間前と同じ地下鉄のホームに降り立ち、ひとけのない構内を抜け、徒歩で行くこと三十分。ようやく帰宅し、蒸れた革靴を脱ぎ捨てるジェームズ。キッチンに続く扉の隙間から灯りが洩れている。
「まだ起きていたのか」
 もう零時を回ろうとしているのに、妻は床に就かず、彼の帰りを待っていた。
「お帰りなさい、あなた」
「どうしたんだ。先に休んでいればいいのに」
 そうなんだけど、と妻。
「相談したいことがあるの」
 深刻な顔つきにたじろぐ。
 何だ、何を言い出すのだ。言っておくが金はないぞ。何年ローンが残ってると思ってるんだ。それともあれか、まさか離婚とか? そりゃ確かに今の俺は家庭的とは言い難いが、それは俺たち家族の生活を支えるために――。
「ピーターがね、こんな本を隠していたのよ」
 そう言って妻が差し出したのは、豊胸手術も明らかなブロンド美女が表紙を飾るポルノ雑誌だった。
「信じられる? あの子、まだ十一歳なのよ」
 ぱらぱらとページをめくるジェームズ。マッチョガイやロリータポルノもない、おっぱいとお尻ばかりのピンナップ。実にスタンダードなエロ本だ。
「それに私、見ちゃったの。あの子がしてるところ――」
 ぎょっとして視線を妻に戻す。
「してるって、誰と?」
「誰とって、違うわよ。そんなわけないでしょ。してたってのはつまりね、あれよ。自分でする、アレのこと」
「ああ、アレか」
 何だ、驚かせるなよ。
「別におかしなことじゃないさ。ピーターも十一歳だ。健康な証拠だよ」
 そうは言うけど、と妻は傷ついた表情になる。
「あの子がそんなことに興味を持つなんて」
「気にするな。誰だってすることさ」
 努めて軽く振る舞い、ジェームズは雑誌をテーブルに戻した。
「これは明日、元の場所に戻してやってくれ。それと、ピーターが何か気付いた様子でも、あくまでも知らんぷりしておくんだよ」
 そりゃあ母親にしてみれば嫌な気分かもしれないが、母親に知られたと判った息子のほうも嫌なのだ。それはジェームズ自身、大いに心当たりがあった。
「それよりどうだ。一杯付き合わないか」
 言いつつ、グラスを二つ用意する。遅くなる日は晩飯を摂らないことにしている。胃がもたれるのだ。
 バカラの偽物にぎっしり氷を詰め込み、アイリッシュ・バーボンをなみなみと注ぐ。
「じゃあ、一杯だけ」
 妻も嫌いなほうじゃない。
 静かにグラスを触れ合わせ、言葉少なにちびちびと啜る二人。酒で疲れがとれるわけはないが、琥珀色の液体は疲れを麻痺させる力がある。
「ねえ、ジェームズ。変な話だけど、あなたが初めてアレをしたの、何歳のときだった?」
 まだ気にしているのか。仕方のない奴だ。
「そうだな。たぶんピーターと同じくらいか、もう少し早かったかもしれない」
 センズリの初体験なんぞ憶えちゃいなかった。きっかけも何だったか思い出せない。耳年増の友人から聞き知ったのか、鉄棒を滑り降りる際に予兆を感じ取ったのか。ともかく、気付いていたら知っていた。そんなものだろう。誰かが手取り足取り教えてやるようなものじゃないのだ。
 いつの間にか二杯目をあらかた飲み干し、早いピッチで三杯目を注ぐ妻。彼女は酒好きだが、決して強い方ではない。案の定、酔いが回ってくるにつれ、次第に饒舌に、快活になる妻。不安になったジェームズが、
「おい、あまり飲み過ぎるなよ」
「わかってるわ。それよりジェームズ――」
 意地の悪い笑みを浮かべて妻は続けた。
「あなた、今でもこっそり、してるでしょ?」
「え?」
 一瞬にして血の気が引く。どうしてばれた? するときはいつも鍵の掛かった個室、トイレか浴室の中と決めているのだ。何か跡を残したのか? あるいは我知らず、声を洩らしていたとか?
「何のことだか――わからないな」
 しらばっくれるものの、年甲斐もなく赤面したジェームズの横顔が、事実を雄弁に物語っていた。狼狽から立ち直れないジェームズの顔を見て、妻はさもおかしそうに笑う。
「嘘よ、冗談よ。私の友達が旦那のしてるところを見ちゃったっていうから、私もカマかけてみただけよ。でも図星だったみたいね」
 ただもうジェームズはばつが悪くて、うんともすんとも応えず、黙って酒を啜っている。
「ホントにもう――」
 ピーターのエロ本を手にとる妻。呆れたように。
「どうして男ってのはスケベなのかしらね」
 泣き笑いのような表情を浮かべたまま、ジェームズはグラスを口に運ぶ。掌の中で、溶けた氷が音を立てる。
 もう夜も遅い。さっさとシャワーを浴びて早く寝なければ明日がきつい。だけどその前に、もう一杯だけ飲もう。
 そうじゃなきゃ恥ずかしくて、とてもじゃないが眠れそうになかった。

 


あとがき
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