10 理想のサンドイッチ 翌日は休日で、暇だった。 相変わらず、空は湖面のように晴れていた。まるで空が、曇りや雨というものを度忘れしてしまったかのように、連日晴天が続いていた。 やることがないし、積極的になにかを始める気にもならなかったので、紗奈は優花に借りた、太宰治の『人間失格』の文庫本を手に取った。 『私は、その男の写真を三葉、見たことがある。』 と小説は始まっていた。 第一の手記まで読んだところで、紗奈はページを閉じた。本を手に持ったまま、畳にゴロンと仰向けに寝転がった。窓枠に四角く切り取られた青空に、雲が光を帯びて流れている。 「ああ」 ふいに、声が出た。胸の中にできた真空の球体が、前ぶれもなくポツンと弾けたような、小さな悲鳴だった。発作的で、意味がなくて、まるで捨てられた動物の鳴き声みたいだった。 目尻から涙が一筋、耳を伝って流れ落ちた。哀しみで胸がはちきれそうだった。理由などなにもないのに。 (ああ、わたしは、空が怖いんだ) 唐突に、紗奈は気付いた。 それは、ずっと前から知っていたことのようだった。自分は空が、青空が怖い。頭から布団をかぶって穴蔵に隠れたいけれど、それすらできないほどに、身動きできないほどに、自分は青空が怖い。 (いったいなぜなんだろう・・・・・・) 一言で表せる言葉があるはずだった。その恐怖の理由、青空の正体を。敵の正体がなんなのか、見極めることさえできれば、立ち向かう術も見つかるはずだった。 紗奈は息を止めてじっと考えた。 手首から上がない父のせいだろうか。いいや、たぶん、それもただの恐怖のひとつの現れに過ぎないのだ。敵はもっと、ずっと奥深い、根源的な場所 に潜んでいる。キーワード。たった一言で足りるはず。そのことが気配でわかる。もう少しだ。もう少しで見つかりそう。その言葉が出てきそう。ああ、ほら、 もう、喉元まで出かかっている。もう少しだ。それで克服できるのだ。もう少しだ。もう少しだ。もう少しだ。もう少し・・・・・・。 どうしても、見つからなかった。 それでも、青空をほんの少しだけ押し返せる、いい方法を紗奈は思い付いた。 その方法とは、理想のサンドイッチを作ることだ。それが有効な手段である証拠に、出来上がりのサンドイッチの姿を漠然と頭に思い浮かべただけで、紗奈はすんなり立ち上がることができた。 ひとつの完成されたサンドイッチの世界。 紗奈はUストアーに行き、理想のサンドイッチを作るための材料を買い込んだ。 ただのサンドイッチではない。なにしろ、理想のサンドイッチなのだ。食材にかける金に糸目はつけなかった。もっとも、Uストアーに置いてある最も高価なもので買い揃えたところで、ミニコンサートのチケット一枚分の金額にもならなかったが。 理想のサンドイッチとは、いかなるものか。先ずは、イメージを創ることから始めなければならない。紗奈は、Uストアーの入り口付近に立ち、目を瞑って精神を統一し、理想のサンドイッチを出来る限り具体的に瞼の裏に思い描いてみた。 第一に、ゴテゴテしたアメリカンタイプでないことだけは確かだ。パンは薄く、軽く端がかりっとするくらいにトーストしてある。パンの耳は切り落として、 大きさと形は、人差し指と親指でヒョイとつまみあげられるくらいの正方形。マーガリンは却下。バターは百パーセント純粋なものを使う。生野菜は瑞々しい有 機栽培のキュウリのみで、ハムは生ハムにしよう。スイス産のスモークチーズとオランダ産のピクルス。マヨネーズは瓶詰め。二種類のサンドイッチを彩りよく 交互に並べ、仕上げにクレソンをふんわりと添える。 「完璧だわ」 紗奈は静かに瞼をあげて頷き、決然として、まだ何もカゴに入っていないショッピングカートを押して歩きだした。 そうして、仕入れた食材を抱えて下宿に帰り着いた紗奈は、首尾よく理想のサンドイッチを作り上げ、それを持って、『レジデンス亀尾』のハルトたちの部屋へと向かったのだった。 |