4 レントゲン写真


「ユキトには脳味噌がないんだ。だから言葉がしゃべれないんだ」

 ずいぶんな紹介もあるものだと紗奈は思った。紗奈が初めてハルトの部屋に遊びに行った日のことだ。

 なにをふざけているんだろう、なにか、そういうネタなのかしらと思い、紗奈は横に立つハルトの顔をうかがった。だが、ハルトはいたってさりげない風情で、むしろ、いつにも増して静かに落ち着いて見えた。その横顔はどこかしら、崇高な雰囲気すら漂わせていた。

 目の前に立っている青年――ユキトは、ハルトによく似ていて、しかしハルトよりは背が高い。目元と口元にほんのり微笑を浮かべて、はにかみもせ ず、ただまっすぐに紗奈を見詰めている。それは紗奈が見たことのない種類の微笑だった。少しもいやみなところがなく、遠い感じがした。紗奈はそれを、何か に例えてみようとしたけれど、どうしても比べるものが思い出せなかった。

「よく、わからないんだけど」
 紗奈はユキトの眼差しから逃げるように俯いて言った。

「ああ、ごめん。ユキトを見たら、みんな最初はそんなふうに戸惑うのさ。ここで立ち話もなんだし、どうぞ中に入ってよ。なんにもないちらかってる部屋だけど、どうぞどうぞ」
 ハルトが明るく早い口調で言う。
 なんにもないちらかってる部屋?
 紗奈は静かに苦笑した。ユキトを見たから戸惑ったんじゃないわ。あなたの言い方よ。よほどそう言ってやろうかと思ったが、言わなかった。

 実際には、部屋は、なんにもないのでも、ちらかっているのでもなかった。機能的、という言葉が一番しっくりくるのではないかと思われた。モノトーンで小 奇麗にまとまっていて、余計なものがなく、奥まって取りにくくなっているものもなく、役立たずのスペースを許さず、まるでジグソーパズルのように、少しで も空いた空間にはそこに最もふさわしい形と大きさと使用頻度のものが嵌め込まれていた。ベッドはひとつだけ。部屋全体からしてかなりのスペースをとってい たが、よく見るとその向かい側の壁面にもうひとつ、収納式の備え付けベッドがあった。テレビを載せている金属製(アルミ?)のチェストの側面に、コルク製 の大きな画板が、裏面を上にして立て掛けられていた。

 玄関と部屋の間にはキッチンとユニットらしき空間があったが、間取りはそれだけで、典型的なワンルームマンションのようだ。

「ここで二人で暮らしてるの。それぞれの個室がなくて、きゅうくつになったりしない? あ、気を悪くしないでね。純粋な疑問なの」
 紗奈がたずねると、ハルトは余裕しゃくしゃくというか、よくぞ聞いてくれたという表情をした。
「うん。このほうが、ユキトに目が行き届くからね。きゅうくつなのは、慣れればなんともないよ」

 なんとなく紗奈にはわかってしまった。ユキトが、身障者なのだということを。それはユキトが持つほんの僅かな違和感や、ハルトの口ぶりから悟ったのだ が、ただ、それをハルトが説明するより先に自分が口に出してしまうのはよくないような気がしていた。なぜか、それは自分にとっても不利なことなのだという 勘があった。だから紗奈はハルトが先に言い出すまでそのことを黙っていた。

「ユキトには、言葉がないんだ」
 カーペットに正坐して、背筋をスッと伸ばし、ハルトは言った。
 ユキトはベッドの端で二つ折りになっている蒲団に浅く腰掛けている。

 男性の匂いがした。それは、シーツや、ふわりと折りたたまれた羽根蒲団や、カーテンや、カーペットや、クッションや、部屋の隅々に薄闇のように根深くし たたかに染み付き、そこはかとなく漂っていた。それがほのかで平和的でさりげないほどに、匂いは圧倒的な親密さで部屋の空気を支配し、紗奈の身体を隙間な く閉じ込め、彼女の胸の芯を乳飲み子のようなあどけなさでくすぐった。紗奈はそれに引き込まれそうになっている自分に気付き、そわそわしそうになり、ひと つ息をつき、膝に置いた両手をキュッと握りしめて居住まいをただした。

「口がきけないの。言葉がしゃべれないってことね。わかったわ」
 紗奈はユキトにほがらかな視線をおくった。ユキトはそれを受け、小さな会釈を返した。
「違うんだ」
 いくぶん声を大きくして、ハルトはきっぱりと否定した。
「ごめん。違ってた?」
「ううん、違ってないよ。紗奈の言ったことは間違いじゃない。ただね、根本的なところが違ってるんだ」
 ハルトは紗奈を見詰め、穏やかな息を吐いた。
「口がきけないとか、耳が聞こえないとか、そういう次元の問題じゃない。ユキトの脳は、三分の一ほどが、腐って溶けてなくなってしまっているんだ。それ が、たまたま言葉をつかさどる部分だったんだ。だから、ユキトには、言葉そのものがない。言葉っていう観念が、根元からなくなっているのさ」

 紗奈は変な感じになった。ショック、というやつだろうか。胸の中の、肝心の一個所がスッポリ抜けて、そこが真空で、支えている周囲の壁をペコンッと吸い 付けてしまいそうなのを、かろうじて堪えている、という感じ。そして、彼女がその言葉をくっきりと理解するには、もうしばらくの時間が必要だった。まだ意 味に霧がかかっている。

 ハルトは、紗奈の当惑を見て取って、ひとつ満足そうに頷いた。
「まだ、よくわかってくれていないみたいだけど」
「いいえ」
 と紗奈は言った。
「理屈は、わかったと思うの。多分。脳が部分的になくなって、言葉が不自由になった、というところは。口が不自由なのとは根本的に違うっていうことも、理解できるの」
 そして紗奈は口ごもり、うつむいて、でも、と言った。
「でも・・・・・・」
「でも、なんだい」
 なんだい・・・・・・なんだい・・・・・・と紗奈はハルトの言葉を胸の内に繰り返した。ふっと目をあげると、そこにユキトの姿があった。膝に自然に下ろ した両手の甲は日に焼けていて、とても間近だったので、紗奈はその角質の細かな筋まで見てとることができた。それは、部屋に漂うほのかな匂いと同質だっ た。

「でも、なんだい」
 ハルトは繰り返した。

「難しいわ。なんと言ったらいいのか。とにかく、言葉のない世界っていうのが想像つかないのよ。だって、わたしたちって、言葉でものを考えるでしょう。な にか、景色みたいなものを思い浮かべても、すぐに言葉に置き換えてしまうでしょう。どんなにしてもそうしてしまうから、そうじゃない世界っていうのが想像 できないのよ」
 言って、紗奈は少し息が上がってしまった。
「そうだね」
 とハルトは言った。
「紗奈の言うこと、すごくよくわかる」
 ハルトは立ち上がった。
「紗奈にいいもの見せてあげる」
「いいもの?」
「うん。ぼくの宝物」
 ハルトは灰色のデスクの、一番上の引き出しを開けた。
「宝物?」

 厚手の透明セロファンのような、黒っぽい写真を一枚、ハルトは引き出しから取り出した。大学ノートよりも大きくて、ペラペラと光を反射する。墨を流したような黒の真中に、大きく、繭のようなぼんやりとした白い塊が写し出されている。レントゲン写真だった。

「これが、ユキトの脳だよ」
 ハルトは紗奈の横に寄り添い、右手を高くあげて写真を窓にかざして見せた。陽射しが透き通り、黒の中の白がくっきりと浮き立った。頭蓋の輪郭に包まれて浮かぶ、脳がかたちを現した。

 脳の中の血管が際立って浮いていた。それだけがあまりにも純白だった。植木鉢から取り出したばかりの植物の根のように、端から鋭く伸びて来て、やわらか そうな脳髄をしっかりと絡めあげている。ところどころとびだしては隠れる細い血管が、たよりなく螺旋状に縒れているのが、高校の生物の資料集に載ってい た、電子顕微鏡写真のスピロヘータに似ていると紗奈は思った。脳は、あるべき姿を保っていなかった。頭蓋は、深い暗闇を抱えていた。脳味噌の左半分、大人 のこぶし大ほどの領域が、スッポリと抜けていた。

「すごい」
 と紗奈は言った。
「はじめて見たわ」
  言ってから、また、とても変な気分に襲われた。ユキトの脳。部分月食のようなかたちをしていて、中心から左右に華のように開いている。暗闇は、暗闇だ。どんなに目を凝らしても、何も見えてこない。出口のない洞窟のように。

「医者が好意で一枚だけくれた。なかなか綺麗なものだろ。言葉を失ったユキトと話しがしたくなったとき、ぼくはこれを光に透かして眺めた。不思議と気分が落ち着いたものだよ」
 写真の向こうで、空に電線が揺れているのが見えた。微風が入って来て、左右に寄せたカーテンをゆっくりと膨らませた。

 ユキトは、同じ場所に腰掛けている。どこを見ているのかよくわからなかった。彼の弟がかざしている、それが彼自身の脳の写真だと理解しているのかどうか も、紗奈には推し量ることができなかった。彼の、あの髪の内側、皮膚と頭蓋の内側に、写真と同じ暗闇を抱いたやわらかなものが隠されているのかと思うと、 紗奈の心は更にどうしようもなく真空になっていった。

 パチン、と鳴った。ユキトがリモコンでテレビを点けたのだ。

 ウフフ、と笑って、ハルトはレントゲン写真をもとあった引き出しにしまった。

 日暮れてきて、ハルトが蛍光灯を点けた。

 テレビは、夕方のニュースをやっていた。ユキトはそれを観ていた。晩ご飯を作るよ、紗奈も食べていくといい。そう言って、ハルトは立ち上がった。手伝うわ、と紗奈も一緒に立ち上がりかけると、台所がすごく狭くて二人立てないから紗奈は坐ってて、と断った。

「献立は?」
「カレー。ぼくはカレーかシチューしか作れないんだ」
 紗奈はアハハと笑った。
 ニュースは、昨夜あった火事について報道していた。放火の疑いが高い、とキャスターが言った。全焼してしまった家は、いつ見ても死人の眼窩に似ていると紗奈は思った。








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