5 晴天警報


 ○月△日、晴天警報が発令された。

 朝、わたしは目覚めて階下の居間に降りた。アイロンがけをしている母がわたしに向かって、「晴天警報が発令されたわよ」と言った。テレビの天気予報を見ると、確かに晴天警報が出ている。いやあねえ、と母が溜息をついた。

「お隣の**町が消滅したんだって。**町にはお得意様の**さんがいらっしゃったっていうのに・・・・・・。**の奥さんのお宅も確かあの辺りよ。この**町だっていつやられるかわかったもんじゃないわ」
「じゃあ、今日は学校はお休みだね」
 わたしは、朝食の食パンを取り出しながら言った。

 テレビでは専門家のゲストが、アナウンサーの横で晴天に関する注意点を説明していた。
『まず大切なのは、絶対に家や建物から出ないことです。それから、窓のカーテンはすべて閉めきってください。できれば雨戸も閉めたほうが無難です。もし仕 方なく外出する時は、車で移動することですね。そのさいには、車の窓ガラスにフィルターをかけてください。布などで代用してもかまいません。万が一屋外に 出なければならない場合は、肌を日光にさらしてはいけません。厚手のコートや手袋、サングラスなどで防護するのがいいでしょう。一番やってはならないの は、空を見上げることです』

 居間を見廻すと、カーテンは引かれていたが、日差しは容赦なく布を透過して窓枠の影を映し、光の輪郭をくっきりと浮き上がらせていた。

「ねえ母さん、うちって雨戸なかったっけ」
 母はその問いかけには答えず、わたしに背中を向けてアイロンをかけ続けながら、口元でなにかブツブツ呟いていた。
「ねえ」
 ブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツ・・・・・・

「じゃあ、これを、**さんの家に届けてちょうだい。こんな時に悪いんだけど」
「わかったわ」

 その日わたしが母にお遣いを頼まれたのは、やわらかい布にくるまれた大きな瓶のようなものだった。一升瓶よりも大きい。一番細い首のところでも、指がようやく回りきるかどうかというところだった。

「気をつけてね」
 店の裏口(完全な日陰になっている)に立って母が言う。
「絶対に空を見上げちゃ駄目よ」
「大丈夫だよ」
 わたしは季節外れの白いダッフルコートを着込み、軍手をはめ、サングラスのかわりにつばの広い帽子を目深にかぶった。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。**さんによろしくね」

 わたしは荷物をしっかりと抱え込み、下を向いて歩きだした。路は、白い。自分の影さえも最小限の大きさにしかならず、照り返す光に侵食されて縁が滲んで いる。真夏でもないのに。街にはひとりの人影もなく、しんと静まりかえっている。小鳥も野良犬も、蜜蜂や蟻さえも、どこかにじっと身を潜ませている。ただ 駐車してある乗用車のサイドミラーが光り、信号機が律儀にも赤から青へと色を変えるだけだ。緑の葉をたっぷりとつけた街路樹は、そよとも動かずに沈黙を 守っている。わたしは空を見ないように細心の注意を払いながら、黙々と歩いていった。

 道程の三分の一ほど行ったところで、立ち往生した。
 路は途絶えてしまっていた。その先にはなにもない。文字通り、なにも。わたしの足の一歩先は切り立った崖になっていて、つい昨日までそこにあったはずの 街並は跡形もなく消失してしまっていた。そしてその場所に、理不尽なくらい圧倒的な巨大な穴が忽然と開いていた。街は根こそぎ青空に持っていかれたのだ。 晴天の災害とはこういうものなのだ。

 穴は向こう側がぼんやりと霞むほどに大きく、底がまったく見えないほどに深かった。中を覗き込むと、虚空に足を引き込まれそうになった。きっと、本当の底なしなのだろう。わたしは緩い弧にくびれた穴の縁をうろうろと歩きながら、困ったなあと呟いた。
「**さんの家はこの路をずっと行った先なのに・・・・・・」

 仕方がないので、わたしは穴の弧に沿って歩き出した。穴は円形なので、大回りでもそうやって行けばいつかは正しいルートに辿り着けるはずだ。しかし、そ れは思うほどたやすいことではなかった。当然のように建物や塀に行く手をはばまれる。区画を無視して穴に沿って歩き続けるなど、どだい無理な話だった。

 わたしはだんだん焦りだした。穴を見失わないようにしながら、最短距離の路を選んで迂回しつつ前進している。わずかずつでも前進しているはずなのだ。ビ ルの隙間など、できる限りの近道もしている。それなのに、どうも穴が遠ざかっている気がするのだ。いいや、確かに遠ざかっている。歩けば歩くほど、建物や 金網やガードレールにいやおうなく誘導されて、目的から外れていく。なぜすんなりあの方向へと続く路がないのか。障害物を通り過ぎ視界が開かれるたびに、 その先に穴があるのがはっきりと確認できるのに、どうしても近づくことができない。

 わたしは脂汗をかき、ついには走りだした。大きな荷物を抱えているせいで呼吸が整わない。どちらに行けばいいのか。引き返したほうがいいのか。もう約束 の時間は過ぎている。気ばかり先走ってスピードが出ない。膝が重くてなかなか上がらない。泣きそうになりながら、わたしはすがるように呟いた。
「どうしよう。正午までに、これを**さんに届けなければいけないのに」

 **さん。**さんってだれ。

 次の瞬間、なにかに躓(つまづ)いた感覚とともに、わたしは空を見上げてしまった。いいや、見上げたのではない。わたしは一生懸命、顔をあげないように 努力していた。今だって、しっかりとうつむいているのだ。それなのに見える。どうしても目を瞑っても首筋に焼き付いてくる。首筋から、青い空が見えてしま う。

 わたしの足もとから地面は崩れだした。

 それまで堅固だと思っていたものは、薄い飴のようにあっという間に粉々に砕け、砕けたさきから、まるでドライアイスが昇華するように、次々と消えていっ た。わたしからGが失われる。息を吸い込む前に身体は落下する。荷物を抱えたまま、果てない虚空に身を任す。なにかが、確実に解き放たれる。

 間延びするほどの長い時間、わたしは落ち続けた。もうだめだという言葉だけが、妙に浮き立って漆黒の闇に木魂した。


 そうして、紗奈は目を覚ました。








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