6 Uストアー 「トマトの缶詰を買わなきゃ」 夕暮れ。学校帰り、紗奈はそう呟いて、大通り沿いのUストアーに入った。 ガラスの自動ドアが力強い音を立てて開く。プラスチックと野菜の匂いと、人々の話し声、レジ打ちの音とBGMといらっしゃいませが交錯する。み んなゴチャ混ぜになって、入るなりワアンという反響を伴って波のように打ち寄せる。リノリウムの床。床に落ちて端っこが踏み潰されたレタスの切れはし。 アーケードのような高い天井からぶら下がった、張りぼての象のオブジェが中空でゆらゆらと揺れている。 「トマトの缶詰」 紗奈はプラスチックのカゴを持って、輸入食料品のコーナーに歩いていった。ニンニクと、唐辛子と、オリーブオイルと、トマトで作るスパゲッティ。簡単で、安上がりで、しかも美味しい。紗奈はよく一人でトマトのスパゲッティを作って食べる。 輸入食料品のコーナーは、マーケットのなかでも異彩な雰囲気を漂わせている。色合いが違う。全体にほんのり薄く埃が降り積もっているように(実際はそん なことはないのだが)そこだけ時間がゆったりと流れ、BGMは他と同じように流れているのに、それなのに、しんと静まり返っている。水もめったに動かない 深海のようだと紗奈は思う。 缶詰。ドライフルーツ。乾燥パスタ。スモークチーズ。ナッツ。ココナッツパウダー。チョコレート。ゼリービーンズ。パウンドケーキの素。オイルサーディン。オリーブ油。中指ほどのガラスの小瓶に入ったリキュール類。 「あら?」 紗奈はコーナーの角に目を凝らした。目の端に、ユキトの姿が通りすがったような気がしたからだ。ユキトか、ハルトか。同じ肩と背中を見たような気がした。 「気のせいかしら」 紗奈は、彼の姿が消えたように思えた角まで行って、ゆっくりと辺りを見廻した。しかし、それらしい姿を見つけることはできなかった。 紗奈は、ハルトのカレーのことを思い出した。なかなか美味しいカレーだった。市販のルーを何種類か混ぜたのさ、とハルトは恥ずかしそうに言った。時間を かけて煮込んだわけではなかったが、それでもじゅうぶん美味しかった。半分はごはんにかけて、もう半分はトーストした食パンで掬って食べた。ハルトが台所 で料理をしている間、紗奈とユキトは二人きりで部屋にいた。ユキトは熱心にテレビを観ていた。紗奈も、黙ってテレビを観ていた。他に、することなどなかっ た。 ドン。後ろから駆けてきた子供が、紗奈の背中にぶつかり、そのままパン屋のコーナーに消えていった。弟らしい四歳くらいの幼児がすぐ後を追いかけていく。 食事のときのユキトの姿が忘れられなかった。彼は左手にスプーンを持ち、とてもゆっくりとカレーを食べた。一匙一匙、確かめながら口に運んでいるよう だった。もうテレビは観ていなかった。彼は、目の前の皿の上にだけ視線を落とし、とても一途にカレーを食べた。ほんのすこし背中を丸めて、砂の中の貝殻を 丹念に選り分けているかのようでもあった。 ユキトがものを言わない分、ハルトがよくしゃべった。 食事中、いつになくハルトはよくしゃべった。どうでもいい、他愛もないことを、笑いながら。電子レンジでビニールを溶かしてしまった話だとか。同じく電 子レンジで弁当の折についていたホッチキスをスパークさせてしまった話だとか。目覚まし時計の効果的な置き方についてだとか。飛行機雲の見え方と翌日のお 天気の関係についてだとか。フォルクスワーゲンとアウトバーンの関連性についてだとか。柘榴についてだとか。ミニカーのドアの開閉についてだとか。などな ど。 「お兄さんは、左利きなのね」 ふと紗奈が言うと、ハルトはキョトンとして、ブンブンと首を横に振った。「ちがうよ」 「でも、左手で食べているわ」 「ユキトの右手には、少し失調があるんだよ。右脚も。これも、失ってしまった脳に関係あるんだけど」 「そう」 紗奈は、その話題をひっぱらなかった。すぐに俯いて、カレーを染ませたパンのかけらを指先で口に押し込んだ。 トマトの缶詰だけ買うつもりだった最初の予定を変更して、本格的に買い物をする気分になった紗奈は、プラスチックの買い物カゴをショッピングカートの中に入れた。カートをからからと押しながら、野菜の列に目を凝らしていった。ハルトの言葉が脳裏に蘇った。 献立は? カレー。ぼくはカレーかシチューしか作れないんだ。 「次は、シチューね」 からからとカートを押して歩きながら、紗奈はつぶやいた。 |