7 レジデンス亀尾 カートを押したまま、そこまで来てしまったような気がした。それで、紗奈は一瞬ドキッとした。だがすぐに錯覚だと気がついた。ずいぶん長いことマーケットにいて、カートの押し手を握り締めていたから、手に感触が残っていた。 そんな錯覚に陥ったのは、考えごとをしながら歩いていたせいだ。 考えごとといっても、なにかを筋道立てて思案していたわけではな い。ただ、泡粒のようにポコポコと浮かび上がってくる、映像や言葉や感触を、つらつらと目の上に並べて眺めていた。七十パーセントはユキトのこと。十七 パーセントはハルトのこと。三パーセントは、いつか見た怖い夢の感触。残りの十パーセントは・・・・・・、よくわからない、かたちの定まらないものがフワ フワと漂い流れていた。 立ち止まったのは、ハルトたちのアパートの真下だった。水色の壁が夜闇に浮かび上がり、門に掛けられた真鍮の表札に『レジデンス亀尾』とあった。鳥の絵 が透かし彫りになっている門戸は開け放してあった。中に入ると、自転車がズラリと一列に留められていた。それらは、門灯のオレンジ色の光を、ところどころ 小さく照り返してきらめいていた。 『レジデンス亀尾』という建物の中心をつらぬく螺旋階段を、紗奈はタンッタンッタンッという音を響かせて昇っていった。もう、ちらほらと星が出ている。 四階。通路兼ベランダの広くて冷たい空間から、ハルトたちの部屋のドアの前に立つ。ベルを鳴らす。 「はい?」 インターホンはあるのに、ハルトはいきなりドアを開け、顔を出した。 「やあ、紗奈。どうしたの? 入ってよ」 やわらかな灯りがコンクリートのベランダまで漏れ出る。部屋を覗くと、扉に背を向けてテレビを観ているユキトの姿があった。 紗奈は、なにかを思い出しかけた。 「突然来てごめんなさい。邪魔だったら帰るけど・・・・・・」 「邪魔なんかじゃないよ」 ハルトは当たり前のように言って、紗奈のコートをハンガーに掛け、クッションをすすめた。 窓の外はもうすっかり闇に沈んでいた。ハルトは台所に立って、シチューを作りはじめた。 「使えるものがあったら使って」 紗奈は、ハルトにUストアーの袋を差し出した。ニンジンやらジャガイモやら鶏肉やらブロッコリーやら、シチューに使えそうなものは一通り入っている。 「たすかる」 ハルトはニコリと微笑み、袋を受け取った。 ユキトは、表面の毛がフワフワしているダークグリーンのカシミヤのセーターを、素肌の上に直接着ていた。紗奈は、ユキトの手を見た。机の上に置かれた彼 の両手は、紗奈がふと視線を落とした、その先にあった。ハルトの手によく似ているけれど、ハルトの手とはまた一味違っている。ハルトの手よりも少し大きく て、少し色が濃くて、爪が丸くて、長い指は筋と関節が目立っている。それから、全体にほんの少し、薄汚れている。 紗奈は目を見張った。なにかを思い出しかけた。台所でハルトが野菜を切る音が聞こえてきた。ダンスでステップを踏むような、連続的な音。 それは、父と二人きりで海岸を歩いた記憶だ。 運転手のいないモノレールを降りると、港だった。ピュウピュウと風が鳴っていた。カタカナが地面にぶつかっては壊れながら足もとを転がっていくような、文字通りピュウピュウという風だった。 だだっ広い港湾区域は、ほとんどがコンクリートでできていた。平たい、平たい、コンクリートの原野に、赤いコンテナ。水族館の横にある遊園地は改装中 で、立ち入り禁止の囲いの上から、誰も乗っていない観覧車が高々と姿を覗かせていた。モノレールの橋脚が緩いカーブを描きながらずっと遠くまで続いてい て、その先に、玩具のような高層マンションが嘘っぽく等間隔に建ち並んでいるのが見えた。大きさの感覚がわからなかった。自分の身体がひどく小さく感じら れた。そうかと思うと、高層マンションをつまんで持ち上げられそうなくらい、大きく感じられもした。その場所は、幼かった紗奈の感覚を狂わせるなにかが あった。 水族館に行ったのだと思う。それはどこか現実味を欠いた記憶で、むかし見た夢だったような気もするが、多分、紗奈はその日、水族館に行った。水族館の窓 から、黒い海が見えた。こんなに近くに海があるのに、どうしてわざわざ水族館を造るのだろう。幼心にそう思ったのを覚えている。 母がいなかったのだ。どういうわけかその日一日、母の姿がなかった。理由は未だにわからない。その頃の紗奈にとって、自分の傍に父がいるのに母がいないなんて、ありえないことだった。 母がいないのに、どうして父はそのことについて説明しないのだろう。なぜ一言も、母のことを言わないのだろう。水族館の光る水槽の前をゆっくりと歩いて いく時も、紗奈の頭からその疑問が離れることはなかった。水族館の床は固くて、冷たい空気が層になって張り詰めているのが、靴と靴下を通して伝わってき た。カップルが一組、水くらげの水槽の前で手をつないで佇み、紗奈には聞き取れないくらいの小声で、なにかをヒソヒソと囁きあっていた。水槽ごとの説明が 書かれたパネルの色は褪せ、特に赤色だったはずの文字が、そこだけ抜け落ちたように読めなくなっていた。 水族館を出て、父と手をつないで埠頭の海岸線に沿ってゆっくりと歩いた。 その日は一日じゅう、父と手をつないでいた。汗ばんでヌルリと滑り落ちそうなのを、力を込めてつかんでいたせいで腕が痛くなって、いっそ手を離してほしかったけれど、強く押し包んだ手のひらを、父は決して緩めようとはしなかった。 船着場には、観覧用の大きな船が一隻、碇泊(ていはく)していた。濃いオレンジ色の船体はがっしりと力強く、ところどころ塗料が剥げ落ちてまだらに変色 していた。見るからにざらついたその船体は、いくつもの修羅場をかいくぐってきた後にそこへと辿り着くまでの、長い歳月を感じさせた。甲板から突き出し た、入り組んだパイプや複雑な機械類が、押し黙ってひっそりとこちらを見ているかのようだった。 「サッちゃん、見てごらん。あのお船はね、南極まで行ったんだよ」 頭上で父の声が低く響いた。 「ナンキョクって?」 「ここから、南を目指してずうっと行くんだ。ずっとずっと、ひたすら南に向かって行くんだ。広い広い海をつっきって。するとね、やがて暑くなって、真夏み たいな暑い国を通り過ぎ、それからまただんだん涼しくなってきて、最後には凍えるくらい寒い氷の島に着く。そこが南極さ」 「南極って、暑くないの? 南なのに」 「南極は寒いよ。北極とおなじくらい寒いんだ」 「ふうん。不思議ね、お父さん」 垂直に切り立った波打ち際で、海水がチャプチャプと音をたてていた。足もとに打ち寄せる透き通った水のなかには、白いたくさんのツブツブが生き物のように漂っていた。 父の手首から上がないのだ。 紗奈は、恐る恐る顔をあげる。父の手首から上がない。物語を聞かせるように、自分にしゃべりかけるやさしい声だけ。あとは、がらんどうの暗い空が広がっ ている。雲なんかひとつもないのに、いつもよりもずっと沈んだ蒼色の空。水平線の端から、地平線の端まで覆いかぶさって、見えるはずのものを見えなくして いる。 「お父さん」 「なんだい?」 「なんでもない」 紗奈はすぐにうつむいて、見なかったことにする。父の手首から上がないなんて。父の手が引っ張るから、紗奈は仕方なくそれに付いて歩く。終わりのないような岸壁の直線を、父と自分の足もとだけ見ながら、遅れそうになりながら、父の歩調を真似てどこまでも歩いていく。 紗奈は、そうっと手を差し伸ばした。ユキトに気付かれないように、慎重に。 ダークグリーンの袖から突き出したユキトの手が、そこだけ別の生き物のように独立して息づいている。 そろそろと指先を近付けて。ぎゅっと、握り締めた。 握った手から、ユキトが微かに息を呑んだのが伝わってきた。見かけよりもヒンヤリとした皮膚に、吸い付くような弾力がある。筋がクリッと出っ張っていて、骨と骨とのあいだの溝はとてもやわらかい。 紗奈は手を握ったままユキトの顔をじっと見詰めた。ユキトは目を細め、顔を逸らしかけたが、すぐにまた視線を紗奈の面上に戻し、今度は正面から見詰め返した。瞳がハルトよりも薄いキャラメル色だ。 ハルトが部屋に入ってくる気配を床に感じて、紗奈はスッと手を引っ込めた。 「できたの?」 「いや、まだ」 ハルトはクッションの上にあぐらをかいた。 「いま、煮込んでるとこ」 「ねえ、ずっとカレーとシチューだけなの。レパートリー増やす気ないの?」 「んー」 ハルトはぼんやりと唸って、後ろ頭に手をやった。 「ない」 「どうして?」 ハルトの応え方がひどく簡潔で断定的であっさりとしていたので、興味をそそられた紗奈は目を大きく見開いた。 「カレーとシチューが作れるんだったら、大抵のものは作れるわよ。料理なんて、難しく考える必要はないの」 「別に、難しく考えてるわけじゃないよ」 ハルトは無心そうに言って、それから白い歯を見せてニカッと笑った。 「ほかに考えるのが面倒くさいだけだ。今のままでも、ちっとも困ったことにはならないからね」 「今日はシチュー。じゃ、明日は?」 「カレー」 「あさっては?」 「シチュー。残ったら繰り越すけど」 「しあさっては? まあ、自炊しているだけでも偉いか」 「カレー」 「やなあさっては? 次はカレーの日に来るわ」 「シチュー。また材料買ってきてくれるとありがたい」 「その次の日は? いいわよ。ところで、やなあさっての次ってなんだっけ」 「カレー。なんだっけ? 呼び方なんかあるの?」 「その次の日は?」 「シチュー」 「その次は?」 「カレー」 「その次は?」 「シチュー」 「その次は?」 「カレー」 「その次は?」 「シチュー」 「その次は?」 「カレー」 「その次は?」 「シチュー」 「その次は?」 「カレー」 「その次は?」 「シチュー」 「その次は?」 「カレー」 「その次は?」 「シ・・・・・・」 言葉を切って、ハルトはお腹を抱えて笑い転げた。紗奈も笑った。いったい、さっきの会話のどこがそんなに面白かったのか。ああ、くだらない、と思いつつも、胸にこみあげてくるものに押されるがまま、紗奈はカラカラと笑った。 「ファ、ハ、ハ」 その奇怪な風音は、まったく突然に、紗奈のすぐ耳もとで発せられた。それとほとんど同時に、彼女の笑顔はひきつった。ギョッとして、とっさに音がした方 を振り返る。ユキトの顔。笑っていた。いや、多分、笑っていたのだと思う。紗奈は、ユキトのその表情を一瞬しか見ることができなかった。紗奈の視界に入っ た半秒後には、彼の顔は、またいつもの静かな微笑に戻っていたから。 それでも、ユキトの笑顔は、紗奈の目の裏にくっきりと焼きついてしまった。なんともいえない、変な笑顔だったのだ。満面で無邪気に笑う四歳児の顔写真 を、コンピューターで微妙に変形させたCG画像。そんなものを思い起こさせる、生理的な気持ちの悪さを伴う。それに、あの笑い声。空気の出入り口が詰まり かけた、いびつなフイゴを無理に押しつぶしたら出た、というような、実に奇怪な音だった。 「ユ、ユ、ユキトさんは笑えるの。言葉が話せないのに」 多少わざとらしくどもりながら、紗奈はハルトに聞いた。 「そりゃあ、笑うくらいのことは、ユキトにだってできるさ。笑いと言語は別物だろ」 「そ、そうね。・・・・・・そうかしら。ちょっと驚いてしまったわ」 紗奈は、あらためて、まじまじとユキトの顔を見た。ユキトは不安げな眼差しになり、恥ずかしそうに膝を抱え込んだ。 「あ、ごめんなさいね。違うのよ」 紗奈は微笑んだ。はじめてユキトに話しかけたように思った。なにが『違うのよ』なのかは不明だったが。もちろんその言葉も、ユキトの脳までは届いてはいなかったが。 「あなたの笑顔、イケてなかったわよ」 ハルトが台所に立ってから、紗奈はふたたび、ユキトの耳に口を近付けて囁いた。 |