8 公園 出口が見つからないのだ。 目を閉じると、すぐにそのイメージに閉じ込められる。いつも身体全体で感じているものを、具象化すると忽然と現れる部屋。 その部屋は、とても暗い。窓がひとつもない。電灯は天井の中央からひとつだけぶら下がっているが、ひどく旧式のもので光が弱い。しかも切れかけていて、脈打つように一秒ごとに点滅する。机の上に、電話がある。やはり旧式の、ダイヤル式の電話。だが、電話線が切れている。 彼は寂しくて泣いている。その部屋で、彼はいつも独りぼっちで泣いている。指先で触れただけで破れてしまいそうな、脆くて薄い羽を擦り合せて、夜通し鳴いている虫のように。 いつしか、彼は気付いてしまう。誰も聞きつけることのない泣き声には、意味がないということに。 寂しくて、寂しくて、彼はテレビを点ける。 十六インチの小さなブラウン管に、見知った景色が映る。小さな弟。通り過ぎていく人々。 音声のジャックがない。入力はどこ。出力はどこ。見つからない。赤と白のジャックはどこに。 チャンネルを換える。暗闇。その真ん中に燈った小さな白い点が、じょじょに大きくなり、やがて画面いっぱいに燃え広がり、闇を焦がす碧い焔とな る。ブラウン管から溢れ出しそうな勢いでゆらめきながら燃えさかる碧い焔には、見覚えがある。あれはいつ、どこで。そうだ、きっとそうだ。あそこが。 彼は立ち上がる。 眩しい、懐かしい、碧い焔に向かって歩いていけば、出口に辿り着けるような気がした。 ユキトは、左手でスッとリモコンを差し向けると、テレビの電源を切った。画像全体が菱形に収縮するように消える。それを見てユキトは心持ち目を細めた。 リモコンを置き、椅子の背からジーパンを取って、坐ったままの姿勢で片足ずつ通す。慎重に立ち上がり、ウエストの金属ボタンを止め、ジッパーを上げる。ポケットの中布を押し込めて上手い具合に均し、ナップザックを軽く片方の肩にひっかけ、ユキトは外出した。 その日は、公園に行った。 気持ちのよいお天気だった。一歩外に出ると、乾いた清潔な陽射しが身体を包みこんだ。リンと冷たい水の薫りのする風は、景色のそこここに落ちた植物の影 を軽やかに揺らしていた。呼吸をするたびに、身体の中の濁ったものがすべて、清らかなものに入れ換えられていく感じがした。干したての蒲団のように好まし い。同じ晴天でも、そういうふうに感じられる日は年に僅かしかない。貴重な日だった。 ユキトは公園のベンチに腰を下ろした。 そこは、とてもよい公園だった。 ユキトは、以前にも何度か、その公園で時間をつぶしたことがあった。だがその日は、年に僅かしかない特別なお天気だっただけあって、いつになく公園のよ さが際立っていた。とりたてて変わった公園というわけではない。広さも遊具の数もほどほど中くらい、というところだし、斬新な砂場や前衛的なジャングルジ ムが設置されているわけでもなく、名のある芸術家が設計したオブジェがズラリと建ち並んでいるというわけでもない。午後になると力士のたまごたちがやって 来て、備え付けの土俵でいっせいに稽古をはじめるということもなかった。 ではどの辺りがそんなにもよいのかというと、いうなれば、その公園の存在自体が、宇宙の黄金比にかなっているのだ。きっと、その公園内のあらゆるものと ものとの距離と角度を測定して計算したら、あるひとつの簡潔な方程式を導きだすことができるに違いない。ジャングルジムのてっぺんに絡み付いて風にそよい でいる荷物紐も、砂場の中にぽつりぽつりと生えているひょろり背の高い得体の知れない紫色の花も、シーソーの両脇にできた深い溝に溜まった決して涸れるこ とのない泥水も、すべてのブランコの板にひとつずつ載せられたカラフルなねずみ花火の残骸も、ベンチでダンボールにくるまってゴロ寝をしているホームレス も、もうひとつのベンチで静かに公園の景色を眺めているユキトも、すべてが美しい調和のもとに公園そのものを構成し、全体を形作っているのだった。 鹿のような眼と脚をした男の子が、一人でジャングルジムで遊んでいたが、その子が帰ったとき、辺りはもうかなり日暮れていた。 小学校の下校時間が過ぎたあたりから、四人の子供のグループが公園を訪れてドロケ(泥棒と警察という遊び)をした。ウラモテリーシャータ(いっせいに出 した手が表か裏かでグループを二手に分ける方法)で泥棒役二人と警察役二人に分かれて、警察が十数える間に泥棒は逃げる。十数え終った警察は泥棒を追いか け、捕まえたらジャングルジムの刑務所に留置する。もう一方の泥棒が見張りの目をかいくぐってタッチすれば、留置されていた泥棒は逃げ出すことができる。 泥棒が二人とも捕まってしまえばゲームオーバー。ふたたびウラモテリーシャーで泥棒役と警察役がシャッフルされ、次のラウンドがはじまる。かくれんぼや鬼 ごっこで、人が鬼に勝つことが絶対にできないのと同じで、泥棒役が永遠に逃げ続けることはあっても、泥棒が警察に勝つことは絶対にない。 ドロケの四人組が公園を走り去ってしまうと、独りぼっちで金網のフェンスに寄りかかっていた男の子が、ジャングルジムに近寄ってきて、オズオズと鉄パイプに手を掛け、登りはじめた。 男の子の黒目勝ちの目と、細くて節くれだった脚は、鹿を思わせた。 男の子は、スルスルと頂上まで登りつめ、一番上の鉄パイプに膝を引っ掛け、逆さにぶら下がって空を眺めた。そして目を瞑って、かなり長い間そうしてい た。そのまま眠ってしまったのではないか、と思わせるくらい、男の子は長いことそうしていた。前髪が風にそよいでいた。宙吊りになった男の子の身体も、心 なしか、そよいでいるように見えた。男の子の姿が公園から消えたとき、辺りはもうかなり日暮れていた。 男の子と入れ替わりに、小さな女の子を二人連れた若い女性が公園にやってきた。二人の女の子は、四歳くらいの双子の姉妹で、女性は母親らしかった。 「ここ、いいですか」 母親は、ユキトの前に立って話しかけた。ユキトはまばたきし、目を細め、コクンと頷いた。母親はニコリと小さく笑って、ユキトの横にこしかけた。 双子の女の子は、まるっきり区別がつかなかった。 顔立ちも、髪の色も、服装も、動き方も、寸分たがわず同じだった。どちらか片方を目で追いかけても、二人の影が接近して重なった次の瞬間には、もうどちらがどちらか、わからなくなっているのだった。 双子は、砂場の中を、コロコロと転げまわって遊んだ。杏色のビロードの服が、あっという間に砂だらけになった。それでも母親は叱ろうとはせず、ユキトの横で静かにその様子を見ていた。 双子の顔があまりにもそっくりなので、時折、二人の顔が、のっぺら坊に見えることがあった。二つの同じ顔が、互いに干渉しあって消えてしまうのかも知れなかった。 砂場にぽつりぽつりと生えた背の高い紫色の花の穂先が、夕陽の最後のひと掬いの光で、蛍光塗料を塗ったみたいにポウと浮かび上がって見えた。光の雫が地 面に吸い込まれるように、残照が音もなく消え去ると、今度は「チリリ・・・・・・ポンッ」という音をたてて、公園を囲んで立つ水銀灯がいっせいに点灯して いった。薄闇に沈んだ街のどこかで、自転車のブレーキが軋む高い金属音が響いた。母親はユキトにまたなにかをしゃべりかけ、立ち上がって双子を呼び寄せ た。双子はすぐに母親のもとに走り寄ってきた。三人は手を繋いで、水銀灯の下を楽しげに帰っていった。 そうして自分も家路につこうとしたとき、ユキトの瞳に弟の姿が映った。 弟は前掛けをし、右手におたまを持ってユキトの前に立っていた。 「 」 弟は無表情だったが、おたまを握る手が力んで小刻みに震えている。前掛けが腰のラインにさりげなくフィットして可愛かった。弟は、なにかをしゃべってい た。自分に、なにかをしゃべりかけている。ユキトには、その言葉たちが、まるで色のスペクトルのように感じられた。本当に、プリズムで分解してじっくりと 眺められたらいいのに。 「 」 弟は怒っていた。それは、まず間違いなかった。弟はむかしから、怒ると無表情になり、握り締めたこぶしをプルプルと振わせる癖があるのだ。まるでバネ仕 掛けの玩具のように、そこだけがおもしろい震え方をする。ユキトは子供のころ、よくそのことをあげつらって弟をからかったものだった。からかえばからかう ほど、ますます手の震えは激しくなった。そしてしまいには、弟は目に涙をいっぱいに溜めて真っ赤な顔をして、出て行ってしまう。決して大声をあげて泣き叫 んだりはしなかった。制御できない震える手を押さえ込むように胸に抱きかかえて、黙って部屋を去っていく弟の後姿を、ユキトは今でもありありと記憶のなか に蘇らせることができる。 今はもう、弟をからかってわざと怒らせよう、などという子供じみた悪意はユキトにはなかった。弟は、いったいなにをそんなに怒っているのか。おたまを握 り締めたまま滑稽に震えるその手を、止めてやることはできないのか。ユキトは感覚の薄い重い右手をゆっくりと持ち上げ、彼の手の上にそっと重ねた。 「 」 ハルトは、弾かれたようにユキトの手を払いのけた。そして右手を高く振りかぶる。綺麗な弧を描いて夜空に掲げられたおたまの先端が、月光を受けて冷たい輝きを放った。 「イタイ」 ユキトは、とっさにビクンッと身体を震わせ、両手で自分の顔と頭を覆い隠した。 そのままの状態で時が止まる。二人の間を真空に似た沈黙が降りてくる。存外穏やかな呼吸音だけが、静けさの中からじわりと滲み上がった。時が動きだす。 ハルトは、振りかぶった腕をゆっくりと下ろした。 『イタイ』 確かにユキトの声だった。だがそれは、大脳新皮質から発したものではなく、反射神経系に蓄えられた言葉だった。そのことは、ハルトにもよくわかっていた。強い刺激に対して反射的に発せられる言葉。そこに意味は伴わない。コミュニケーションも、ない。 だがそれでも、心の隙をピンポイントで突かれて、ハルトはうなだれ、黙り込んでしまった。ユキトはそれをじっと見詰めた。 ふと、逃げたくなった。 それは、どちらかというと甘い衝動だった。ユキトの胸にコロンと転がりこんできた、一粒の飴玉のような思い付きだった。もしここで、自分が逃げたら。本気で逃げたら。弟は、本気で追いかけてくるだろうか。 そのシーンが見てみたい。 ユキトは、パチンコ玉のように駆け出した。靴のゴム底がアスファルトを叩く、乾いた音が辺りに木魂した。半秒遅れて、ハルトが前のめりにスタートを切る。全力疾走の風が路上の空気を切り裂いた。 タッ、タッ、タ、タ、タ、タタタ、タタタタタタタタタ・・・・・・ 三十メートルも行かないうちに、ハルトはユキトを捕らえた。パーカーの襟首を鷲掴みにし、振り子の原理で力の向きを反転させる。ガックンという衝撃とともに、二人の身体が同時に地面に叩き付けられる。慣性で二十センチほど滑り、そのまま静止する。 「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、・・・・・・」 ハルトはユキトを組み敷いている。ユキトの頬にできた傷口から、濃い血液があふれ出る。暗がりで見る血液は、皮膚にペトリと吸い付いた艶やかな黒いヒルのようだ。 ユキトの目は、街のあちこちの灯りを反射させてキラキラと光っていた。 「 」 ハルトはユキトの身体を跨いで両腿で挟み、上体を起こした。仰向けのユキトに自分の全体重をかけ、左手で強く胸を押さえ込む。そしてハルトは、右手に持ったおたまを、大きく肩よりも後ろに振りかぶって、ユキトの額目がけて勢いよく打ち下ろした。 カッコン。 まるで鹿威しのような澄んだ音色が、ユキトの面上で軽やかに鳴り響いた。間髪入れずもう一撃。 カッコン。 「イタイ」 更に、振り上げる。 カッコン。 打ち付ける。 カッコン。 打ち鳴らす。 カッコン。 カッコン。 カッコン。 カッコン。 カッコン。 むかし、二人でホットケーキを作って食べた。ハルトが種をかきまぜて、ユキトが上手に焦げ色を付けてひっくり返した。気泡がポツポツと入って、端がカリ カリになったホットケーキ。バニラと、バターの上からあふれて流れ落ちるくらいたっぷりかけたメープルシロップの匂いがした。ユキトは、その匂いをかいだ ような気がした。 バニラとメープルシロップ。 ハルトは、ユキトに跨ったまま胸を上下に波打たせて荒い息をした。シャツの襟から覗いた喉仏が、時折、皮膚の内側を滑るようにキョロリと動いた。 ユキトは額に血をにじませてぐったりしている。最後のほうは、抵抗するのもやめて殴られるにまかせていた。 風が傷に当たった。最初は感じなかった。しばらくして、ユキトが焼け付くような額の痛みに気付いたころ、ハルトはようやくユキトから降りて立ちあがった。もう、手は震えていない。 ハルトはユキトに背中を向け、アパートの方に歩きだした。ガックリと肩を落とし、覇気を失った老人のような歩き方だった。じっと目で追っていても、いっこうに小さくならないくらい、のろい足取りだった。 少しして、ユキトもふらつきながら立ち上がった。そして彼は、ハルトの背中を追った。 |