9 携帯


「紗奈はいいなー」
 紗奈のとなりで、優花(ゆうか)はポツリとつぶやいた。プラスチックのスプーンで、カップの苺ヨーグルトをクルクルかき回している。

「え?」
 紗奈はストローを軽く口から離し、聞き返した。
「いいなって。なにが?」
「そりゃあさ、ハルトみたいなやさしい人が彼氏なんだもん」
「は」
 紗奈は宙を見て、まばたきした。いつの間に、ハルトと自分は彼氏彼女の関係になっていたのだろうか。いや、そんな約束を取り交わした覚えはない。

「ああ、それ誤解だわ。ハルトとは、一度もそんな雰囲気になったことはないわよ。友達よ。ただの友達」
「えー」

 優花は、ヨーグルトの上に落としていた目線をあげた。
「ウソォ。だって、紗奈とハルトは、いつも講堂の前で待ち合わせて、ラブラブの雰囲気だってみんな言ってるよ」
 紗奈は苦笑した。
「たぶん、ラブラブってところだけが、その人のフィクションなのよ。いったいだれがそんなこと言ったの」
「えー、 なんだー、残念。だってさあ、ほのぼのした似合いのカップルだねって、みんなで話してたんだよ。ハルトって、なんかちょっと頼りない感じするけど、顔なん かけっこう端正で可愛いし、やさしそうだし。えー、ホントォ。本当にぜんぜんそういう話にはなってないの。一度も? でもさあ、一緒にいて、いいなって思 わない? ほんのちょっとくらいは」
「そうねえ・・・・・・」
 紗奈はストローの先を噛んで、ちょっとずつジュースを吸い上げながら、じっと考えてみた。
「やっぱり、ハルトはそういう対象にはならないと思う。友達だよ」
「そうかあ。友達は大事だよね」
 優花は真面目な顔つきで、微かに眉をひそませてひとつ頷いた。

 紗奈と優花は、学食で昼食を済ませた後、ラウンジで次の講義までの時間をつぶしていた。大学のラウンジは、三階までの吹き抜けで広々している。

 優花は、スプーンをヨーグルトから引き出して目の高さに上げ、ポタポタと滴り落ちる雫の具合を見定め、それから思い切ったように口の中に入れた。

「いいなーってわたしに言ったけど、そういう優花はレッキとした彼氏持ちじゃない」
「わたしのことはいいのよ」
「なんでよ。香川さんとうまくいってないの?」
「ううん、そんなことないよ。でもカレ仕事忙しいからね」
「逢ってないの?」
「ん。電話はくれるけど」
「そっか。でも毎日してるんでしょ、電話」
「まあね。エヘヘ」
 優花はせっせとヨーグルトを掬っては口に運んだ。
「そういえば、今日ハルト見ないね」
「どうしたのかな」
「知らないの? めずらしいよね、ハルトが休むなんて。メール入ってない?」
「いや、来てない」
「ふうん」

 予鈴が鳴ったので、紗奈と優花はラウンジを出た。次の講義は別々だから、出口のところで別れる。

「じゃあね。あ、紗奈、ハルトに一応電話しといた方がいいと思うよ」
「うん。今日しとく。優花、明日バイト?」
「うん。次会うのは月曜日だね」
「わかった。じゃあ月曜にね」
「バイバイ」
「バイバイ」

 講義が終わるとすぐに、紗奈は電話をかけた。七回目のコールで、寝ぼけたようなハルトの声が応えた。
「ああ・・・・・・、紗奈。なにか用」
「ハルト、今日学校休んだでしょう。寝てたの? 身体の調子でも悪いの?」
「いや、ぜんぜん・・・・・・ぼくはなんともないんだけど・・・・・・ユキトが・・・・・・」
「ユキトさんがどうかしたの?」
「ちょっと・・・・・・転んで・・・・・・タンコブができて腫れてて・・・・・・病院に行くほどじゃないんだけど」
「ええ、たいへんじゃない。ちゃんと手当てできたの。今はどうしてる? ユキトさんの様子はどう」
「手当てはしたよ。ちゃんと。今はベッドで寝てるけど、目は起きてる。こっちを見てるよ」
「今から、そっちに行こうか?」
「いや、来ないで欲しい。ありがたいけど。ちょっと眠くて・・・・・・。ぐっすり眠りたいんだ」
「お腹すいてない? ちゃんとご飯食べた?」
「うん・・・・・・。大丈夫だよ。ありがとう」
「なにかあったら電話してね。すぐ行くからね」
「うん。助かる。じゃあ、切るね」
「ほんとに電話するんだよ」
 ―――。

 通話が切れると、紗奈は、ガランとした寂しさの中に取り残された。








戻る