お化けの意趣返し
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三ヶ月ぶりの帰宅だった。症状が快方に向かい、もはや何の心配もないと看て取った医師が垣内浩太郎の退院許可を出したのである。
どういうわけか入院した直後から、彼を悩ませ続けた怪異現象はぱたりとやんだ。その理由を医師たちは当然のごとく、医療技術と向精神剤の力だと解釈した。何しろ幽霊だの宇宙人だのと騒ぎ立てる患者なら数え切れないほど相手をしてきたし、そういう連中の治療はお手の物だったからである。
精神科医によるカウンセリングもセオリーどおりにおこなわれた。医師は彼の言葉を無理には否定せず、ふむふむと根気強く耳を傾けた上で話をクラスメイトの自殺にすり替えていった。その巧妙な誘導に彼はうかうかと乗り、そして入院してからは恐ろしい目に遭っていないという事実などもあり、医師の言うとおり、あの一連の怪異は自分の心が作り出した虚像だったのだと納得するようになった。
充分な休息とバランスのとれた栄養、そして経験豊かな医師の治療によって垣内浩太郎は心身共に快復した。当人にもその自覚があった。だが三カ月ぶりに自宅に戻る際には不安もあった。医師の手を離れると、また彼の心が昭彦の亡霊を生み出してしまうのではないかと危惧したのである。
しかし何もなかった。至って平穏そのものだった。母が腕によりをかけて作った料理は大変美味しかったし、父が食事の席で持ち出した、福島の祖父のもとに身を寄せてはどうか、という提案は彼の心を軽くした。
福島という遠隔の地ならば、クラスメイトを死に追いやった彼の過去を知る者は皆無であろうし、新たな気持ちで一からやり直すには打ってつけだと思った。再び今の学校に通う気には到底なれないし、行けばまた不安と罪悪感がぶり返して亡霊を生み出してしまうかもしれない。それならばいっそ福島に行ったほうが安全だと彼自身も乗り気になった。
何もかもが良い方向へ動きだしたような気がした。今までのことは全て悪い夢だったように思われた。トイレや風呂といった独りになる場所でも怪異は顕れなかった。さすがに眠る前には不安が募ったので、処方された睡眠薬を服用して床に就いた。薬が効いてくるまでのわずかな時間、彼は戦々恐々と事態を眺めていたのだが、結局何も起こらないまま眠りの中に埋もれていった。
そして目覚めた退院翌日の朝。自然に目が覚めた垣内浩太郎は時計に目を遣る。午前九時、ずいぶん寝坊してしまった。
居間の方からテレビの音声が聞こえる。父は出勤している時間だが、母が在宅していることに安堵した彼はベッドの上で大きく伸びをする。
こんなにも平和な朝が来るなんて。神さま、ありがとう。
そして見た。勉強机に置かれた一枚のルーズリーフ。
《退院おめでとう。これからもよろしくね》
狂気と絶望に満ちた悲鳴が聞こえ、慌てて駆けつけた母の視界に息子の姿はなかった。ベランダに続く窓が開いている。
恐る恐る近付き視線を落とす。
マンションの八階から見下ろした歩道には赤い花が小さく咲いていた。
ふらふらと街を彷徨う吉沢昭彦の亡霊。幽霊という立場に相応しく、浮かない顔をしている。
まさか死ぬとは思っていなかった。いつもどおりにびびらせて、小便くらいは漏らさせてやろうかと、そんな軽い気持ちだったのだ。
殺すつもりじゃなかったんだ、と昭彦は何度も自己弁護を繰り返す。何せ久しぶりの再会だ、挨拶くらいはするだろう?
実は入院直後、一度だけ昭彦は病院に顔を出したことがある。しかし患者たちが騒ぎ立てたので、慌てて逃げ出したあとは病院に近付かないように心掛けていたのである。
気の触れた人間はやたら幽霊だの悪魔だのと言い立てるものだが、案外狂気と霊能は近いところに位置しているのかもしれない。仮にそうだとすれば、迂闊に病院に出入りして無用な騒ぎを起こすべきではない。そう考えた昭彦は垣内が退院するのをじっと待っていたのである。
――殺すつもりじゃなかったんだ、そんなつもりはなかったんだ。
誰に聞かせるわけでもなく、昭彦は弁解を繰り返す。
発作的にベランダへ駆け出した垣内を止める暇などなかった。昭彦にも何が起こったのか解らなかった。喉も裂けんばかりの絶叫に身が竦みもした。記憶のいちいちはひどく鮮明なくせに、その間は硬直して何もできなかった。
今でもはっきりと焼き付いている。
手摺りをまたいだ垣内はこちらを振り返ったのだ。その瞬間、垣内の視線がはっきり自分を捉えているのに気付いて鳥肌が立った。
狂った、そう理解したときにはもう姿が消えていた。
――どうしようもなかったんだ。
百万回繰り返したところで後ろめたさが晴れるわけではない。それでも昭彦は繰り言を続け、罪悪感を遠ざけようとする。わざとではないし、予見もできなかったのだ、と。それにいじめられて死んだのは垣内だけじゃない。むしろ先にいじめられ、その挙げ句に死んでしまったのはぼくの方なのだから、これでおあいこじゃないか、と。
深く沈思する昭彦の肩を突然誰かが掴んだ。驚く間もなく、ぐい、と強制的に振り向かされる。
「よぉ」
声も出なかった。
振り返ったその先に、頭部がぐしゃぐしゃに潰れた人間が立っている。
「な――」
言う暇もなくいきなり殴り飛ばされた。さらに倒れ伏した昭彦の腹といわず背中といわず、ところかまわず蹴り付けてくる。手加減など微塵もない、殺意の充満した暴力が行使される。
「たすけて、だれか」
思わず通行人に助けを呼びかける。だが亡者の言葉を耳に留める者は誰もいない。亡者の姿を目に留める者もいない。
助けを求めるあてもない昭彦の上に、一方的な暴力が降り注ぐ。
「うわああぁぁあああっ!」
やけくそになって反撃を試みるものの、それは更なる暴力を呼ぶだけだった。
彼我の力の差は明白だった。手違いの事故で死んだ昭彦と、狂気の縁まで追い詰められた者と、その恨みの度合いなど比肩すべくもない。
正真正銘本物の怨霊を前にして、昭彦はあまりに無力だった。
馬乗りになり、がつんがつんと拳を振り下ろすたびに、崩れた頭部から脳漿をまき散らす垣内浩太郎の亡霊。
「おまえさあ、あれだけ俺が謝ったのに何で許してくれねえんだよ。すげえ陰険だよな、おまえ」
髪を掴まれ、激しく揺さぶられた。
「何か言ってみろよ、おい」
「か、垣内くんだってそうじゃないか。何度も許してくださいって言ったのに――」
途中で顎をしたたかにやられ、言葉が途絶える。
無言で殴り続ける垣内。痛いところを突かれてむきになっている。しまいにはぐいぐい首を締め付けてきた。
生きていれば完全に窒息死するはずの時間喉を締め上げられても、しかし昭彦は絶命することもなく、意識が遠のくことすらなく、延々と死の一歩手前で泡を吹き、苦悶にのたうち回る。
「あはは、そうだよなあ。根性悪いのはお互い様か。じゃあお互い好き勝手にやろうぜ、なあ」
そして再開される情け容赦ない打擲。
やばい。本当にやばい。
すでにぼくは死んでいる。だからどれだけ乱暴な目に遭っても決して死に至ることはない。垣内の恨みのままに――その後は嗜虐の愉しみに任せて――このままずっと際限なく、ありとあらゆる残虐な仕打ちを受ける日々。そこには自殺という逃げ道すら用意されていないのだ。
まさに地獄だ。死の先にある永遠の地獄をこれから体験することになるのだ。
その事実を理解して、昭彦は犬のように失禁した。あるはずのない尿が、確かに洩れた。
――死にたい。
そう思った。死んでしまいたいという思いと死にたいという思いは似ているが微妙に異なるものだ。
そして今、吉沢昭彦は、心の底から死を望んでいる。
了
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