王子の見た景色

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  突然に王を失い、常経国は混迷の極みに陥った。王を失ったばかりが原因ではない。まだ後継者たる王太子を決めていなかったのだ。
 五指に余る王子たちが、我こそはと王座を主張し、それぞれを支援する貴族、豪族たちが互いに牽制し合い、争いは容易なことでは終息しそうにもなかった。ついに槙堵王・瀝霜が強権を発動し、ひとまず王位は長兄が継ぐこととなったが、不満を抱くその他の王子たちは、ならば次の太子の座を奪い合うという有り様だった。
 その中で遮照王子だけは例外だった。王の死が彼の邪眼によるものと知れ、彼は国を追放されたのである。邪眼によって母を殺し、そしてこのたび父をも死に追いやった罪は重い。死罪にすべしとの声もあったが、迷信深い常経国の廷臣はいまだにあの予言を憶えていた。それに加えて遮照王子は政治的影響力も皆無、ならば殺すまでもないと放逐に決まったのである。
 遮照王子は輿に揺られ、槙堵国との境まで運ばれた。持ち物といえば一袋の砂金と愛用の笛だけ。供回りは誰もいない。
 輿から下ろされ、目隠しを外される。これは大臣の言いつけだった。どうせ異国に放逐するなら、せいぜい邪眼の禍を振りまいてこいとの考えだった。
 陽が落ちるまで真っ直ぐ進め、決して振り返ってはならないと言われ、邪眼の王子はおとなしく従った。目の前に広がる原野の奥行きは、遠近感に慣れない王子を不安にさせ、慣れるに従って魅了した。
 全てを失った代償として、王子は光を取り戻した。故郷を追われた悲しみに暮れる一方で、しかし王子は黄金の太陽に心を奪われ、白銀の月に陶然とする。
 だが飛び跳ねる瞬間の野ウサギの脚、雨露に濡れたスミレの含羞、きらめく小川に身を翻すしなやかな魚の尾、どれもが一瞬現れ、瞬きをしたあとには消えてしまうものだった。いまさらながらに知ったこの事実を王子はひどく悔やみ、何とかしてこれを留めておきたいと強く願った。
 ――またいつ光を失うとも限らない。だから今のうちに光に満ちた世界を留めておこう。
 なかば脅迫的な思いに駆られ、王子は絵を描き始めた。道具などない。焼け残った炭を用い、割れた皿や平たい石に、人の絵、花の絵、獣の絵を描くだけだ。だがその簡素な手法で描かれたものですら、目のある者に王子の画才は隠しようもなく、やがて物好きな商人の宅に招かれ、そこで初めて彼は絵筆と顔料の存在を知った。
 王子の画風は類を見ないものだった。そっくりに描くというだけではない。実に見事に万象の内実を描き出し、見る者に生々しい既視感を与えるのだ。王子の絵は目に頼って描かれたものではない。盲人として過ごした時代に否応なく鍛えられた触覚が平面の絵に起伏を与え、研ぎ澄まされた聴覚が目に見えない音や風までも捉えるのである。
 やがて王子は遮照の名を捨て、自ら号して「恵照」と名乗った。流浪の絵師・恵照は旅先で一宿一飯を乞い、その代償として絵を描く。興が乗れば戯れに笛など吹き、やんやの喝采を浴びるのも楽しいひとときだった。
 乞われれば東へ、気紛れに西へ。どこにでも気軽に恵照は旅をした。どんなに退屈な土地でも、何かしら描くに足るものを発見し、そのたびに次はどこへ行こうかと心が騒ぐ。
 だがどうしても故郷へ足を運ぶのは躊躇われた。
 あれから十余年、常経国は地上から消えていた。再三にわたる内紛に業を煮やした槙堵王・瀝霜はとうとう常経国に代官を派遣、直轄地にしてしまったのである。つまりもはや誰憚ることなく、恵照は郷里に戻ることができたのだが、それでも彼は二の足を踏んでいた。
 異国で暮らす十数年、彼の邪眼は一度として禍を引き起こさなかった。その事実について、彼はひとつの推論を得ていた。彼の邪眼は常経国の人間にしか効果がないのではないか、と。だからこそ槙堵王は無事であり、父・常経王は死んだ。そしてその仮説に基づいてみると、やはり常経の地に行けば、またいらぬ禍を引き起こす危険があるのだった。

 だが恵照三十一歳のある日。旅宿で知り合った行商人が常経の出身だと聞いて彼の心は激しく揺らいだ。もはや常経の人間にすら邪眼は通用しないのだ。そう思うと望郷の念は抑えがたく、とうとう彼は故郷へ旅立った。
 初めて目の当たりにする故郷は想像以上に美しかった。どこにでもある田園地帯、さほど豪奢でもないかつての宮殿、がやがやと猥雑な市場、しかしその全てが美しい。古くに馴染んだ訛り言葉、香辛料を利かせた料理、乾燥した風を掴めば指先でさらさらと空気がほぐれる。
 何も変わらず、しかし見るもの全てが初めての故郷に立ち竦み、恵照は懐かしさに涙が滲む。槙堵国の支配を受け、しかし故郷は変わらない。そこに人が住む限り、たとえ名前は変わっても、依然ここは常経国なのだ。
 常経で過ごす初めての夜。恵照は酒場の隅から聞き覚えのある声に耳を傾ける。酔漢の濁声をかいくぐってみれば、ぼそぼそと独り言を呟く初老の男がいた。恵照は不案内な旅人を装って近付き、この土地のことを尋ねるふりをする。
 酒を奢り、話を聞くうちにようやくその声音を思い出した。過ぎ去りし少年時代、常に背後から聞こえてきた声だったのだ。
「こう見えてもわしは昔、王子のお目付役をやっていたのだよ」
 そう自慢げに語る老人は恵照の正体にまるで気付いていない。酔いのせいではない。老いのせいでもない。邪眼の王子・遮照とは、常に紅い目隠しをした異形の少年だった。その印象が強すぎて、よもや目の前の男が本人であるとは思いも寄らないのだ。
 酔いに任せて老人の口は軽くなり、しきりと往時を回顧し、現在の有り様を嘆く。槙堵王・瀝霜の支配は緩やかで、支配者としては申し分がないことは老人も認めるにやぶさかではない。
「だがね、旅の人。やはり自分の住むところは自分らでやっていきたいと思うのは人情じゃないかね」
 知らぬうちに杯を重ね、完全に出来上がった老人は酔眼を真正面から向けてくる。
「しかしまだ希望はある。今にきっと追放された王子が戻ってくる。そういう予言があるのだよ、この国には。そしていつの日か王子の手によって常経国は復興されるはずだ」
 昂奮した口振りに狂信的な熱が宿っていた。
「何しろ遮照王子は普通の人間ではない。邪眼の持ち主だからな。たとえ仇なす者がいたとしてもひと睨みだ。嘘じゃないぞ、本当のことだ」
 言いつつ、それが邪眼と気付きもせずに、老人は恵照の瞳を睨みつける。もちろん何も起こらない。起こるはずがないのだ。
「――そうですか」
 枯れた思いが口から漏れる。
 邪眼の呪力はすでに失われたのか。いや、そもそも邪眼など初めからなかったのか。
 もとより恵照に判るはずもなく、ただ視線を逸らすのみだった。

 恵照はその後二十数年にわたって各地を遍歴し、行く先々の風景を絵に残した。時を追うごとに彼の名声も上がり、当代随一の画家と誰もが目すようになったが、しかし彼は旅をやめなかった。そしてある冬の日、旅先に投宿した富豪の家で、風邪をこじらせた恵照は呆気なく死んだ。遺族はなく、遺言もなく、ただ膨大な量の絵画が各地の愛好家に残されたのみだった。
 恵照の死から数年後、槙堵王・瀝霜も崩御した。死後、例に漏れずお家騒動が勃発し、槙堵国は急速に衰退した。その弱り目を狙って北方の異民族が侵攻し、瀝霜の死から二十年も経たずして槙堵国は滅亡した。
 異民族は新たな王朝を樹立するにあたって、前時代の影を一掃した。懐古の情が民族意識を再燃させ、反乱を生む萌芽となり得ると考えたのだ。法制を改め、習俗を強要し、人々の暮らしも変化を強いられた。二世代もすればかつての暮らしぶりは影を潜め、都市の景色も様変わりした。
 しかし絵師・恵照の残した絵画は偉大な芸術品として美術を愛する者に秘蔵された。代々受け継がれ、あるいは人に譲られ、時代が降るにつれて顔料の鮮やかさは失われたが、しかし恵照の手による確固たる描線は、数世代の時を経てもなお、見る者に生々しい既視感を抱かせずにはいられない。
 およそ目に映るもの全てに関心を持った恵照だが、彼が最も好んだ画題は故郷の風景である。現存する作品数、実に七十四点。戦火によって失われたことを考えれば、いかに彼が故郷の景色を愛したか容易に想像できる。
 現在、恵照の作品は世界中の美術館に展示されており、その多くは常経国の風物である。
 それを初めて見る者は、常経国という聞き覚えのない地名に首を傾げる。だがしばし見つめるそのうちに、あたかも自分がその国を訪れたことがあるかのような錯覚を抱く。再びその絵を見る者は、瞼を閉じても在りし日の常経国を思い浮かべるようになる。三度その絵を目にした者は、歴史学者でもなければ知ることのない、この小さな王国に懐かしい感情を抱くに至る。
 かくして王子の画才によって、常経国の繁栄は末永く画布の上に留められた。地図にその痕跡すら残さない亡国ではあるが、しかし数百年の時を超えて、今もなお常経国は活き活きと命脈を保っている。

 

 


あとがき

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